親孝行から孔子へ (24)ふたたび、『仁』とは。 ・・・【完】
前回は、
孔子が慎んだ3つの言葉
について書きました。
特に、
最高位にある「仁」については
「知」との対比によって
説かれることがあります。
▪「知者は水を楽しむ。仁者は山を楽しむ。」
(『論語』雍也篇より)
▪「樊遅、知を問ふ。」(『論語』雍也篇より)
『仁』の語源。
孔子の思想の中で
重要な概念である『仁』。
『仁』という言葉には
どのような意味が
含まれているのでしょうか。
『仁』という漢字は
「人」と「二」を組み合わせた形ですが、
「二」は敷物を表しているそうです。
『仁』は人が敷物の上に座る様子を
示していて、
もともとは
敷物が暖かいという意味だったようです。
広がり、昇華する『仁』。
しだいに、
二人の人間が
なごやかに相親しむ
という意味になっていきますが、
孔子の語る『仁』は
ここからさらに
意味が抽象化され、
高度な観念へと
達したということになります。
[ 白川 静,『常用字解』, 平凡社 (2003) より]
孔子と弟子の問答。
『論語』には
次のような文章があります。
子張(しちょう)、仁(じん)を孔子に問ふ。
孔子曰はく、
能(よ)く五(いつつ)の者を天下に行ふを
仁と為すと。
之(これ)を請(こ)ひ問ふ。
曰く、
恭(きょう)・寛(かん)・信(しん)・
敏(びん)・恵(けい)なり。
恭(きょう)なれば則(すなわ)ち侮(あなど)らず
寛(かん)なれば則ち衆(しゅう)を得、
信(しん)なれば則ち人(ひと)任(にん)じ、
敏(びん)なれば則ち功(こう)有り、
恵(けい)なれば則ち
以て人を使ふに足る。
-『論語』陽貨篇(ようかへん)より-
徳目としての『仁』。
意味は次のようになります。
『 子張が、
いかなる道を行うことが
「仁」でありますか、
と孔子に質問した。
孔子が、
五つの徳を至るところにおいて
立派に実行して行くことが「仁」である、
と答えると、
子張はさらに、
その五つの徳とはいかなるものか
お教えください、と願った。
これに対して孔子は、
それは
態度に慎みのあること《 恭(きょう)》
寛大なこと《 寛(かん)》
言葉に偽りのないこと《 信(しん)》
物事の処理が敏速であること《 敏(びん)》
めぐみ深いこと《 恵(けい)》
である、
とその徳目を挙げ、
次にその五徳の効果を説明した。
五徳とは:「恭」・「寛」・「信」・「敏」・「恵」
上に立つ人が身を慎んでおれば(恭)、
下の者がその上の者を
侮り軽んずることはない。
上の人が寛大であれば(寛)、
大勢の者が自然に集まって来る。
上の人の言行に信実があれば(信)、
民はみな安じてその人に事をまかす。
上の人が物事をてきぱきと
敏速に処理していくと(敏)、
物事は益々よく運ぶ。
また、
上の人がめぐみ深ければ(恵)、
自然と民も上の人のために
骨を折ることを厭(いと)わなくなり、
人民が心から協力し
自然と動いてくれるようになる。
五徳の総和としての『仁』。
かくの如く、
この五徳の実行によって、
至る所で
民は安じて、
国は定まる。
これがすなわち仁道である、
と孔子は教えた。』
仁道と現実。
これは
私達の認識できる
結果の世界を通して、
目に見えないけれども
しかし
確実な方法としての
『仁』の道
というものがあることを
教え伝えているように思えます。
『仁』の道を行う者の心が
現実の隅々にまで表出していき、
結果として
素晴らしい現実が
私達の目の前に立ち現れる
ということが伝わってきます。
『仁』の語源ふたたび。
安心の中で
活き活きと生きることのできる
状態では、
そこには同時に、
大きな全体を視野に持った
『仁道』の意識と
その意識から自然に生まれる
五徳の言動があり、
それが
あらゆる場所を暖かく
包み込んでいるように思われます。
ちょうど、
『仁』の語源に出てきた
” 暖かい敷物” の上で
安心してゆったりとくつろいでいるような
そんなイメージが湧いてきます。
< 完 >
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